antipasto

伝言  (高橋明可)

「どうもありがとう、お行き」
 究(きゅう)は、テラスに覆い被さるように生えた木の枝に下がる蝙蝠にそう告げた。
 我ら吸血鬼の眷属。同じ闇の世界に生きる小さな仲間。
 その蝙蝠はばさばさと飛び立って姿を消した。父なるヴァイの力に守られたこの屋敷の敷地から出ていき、下界に向かったことだろう。究は眼鏡の位置を少し直しながら呟いた。
「ヴァイ様に報告しなきゃ、愛と馨(けい)が帰ってくるって」
 独り言を言いながら、テラスから室内に向かおうと、くるっと体の方向を変えると思いもかけない人物がそこにいた。
「鴉拔(えぬ)? 珍しいね、どうしたの?」
 長い黒い髪、白い肌、切れ長の瞳も黒く、白いシャツに黒いズボン。まるでモノトーンで出来ているような鴉拔がそこにいた。色がついているのは、彼が持っている本の表紙の臙脂色だけ。
「廊下から覗いたら、君が空に向かって一人で喋っていた」
 ぼそっと鴉拔が言った。
「ああ」
 蝙蝠が姿を消した虚空を、少し振り返って究は見る。もちろんあの小さい手下の姿はもうない。
「愛からの伝言を身に受けたやつでさ。もうすぐ馨と一緒に帰ってくるって」
「ふうん? いなかったんだ。あの騒がしいの」
「まったく、鴉拔は本当に外のことに興味がないなあ」
 呆れて、究は思わずそう呟いた。そういえば鴉拔と話したのって、いつ以来だっけ?
 究は思い出そうとしたけど、思い出せなかった。三日ぶりか、三週間ぶりか、三ヶ月ぶりか、それとも三年ぶり? さすがにそれはないか。
 鴉拔はいつも部屋で静かに本を読んでいる。
 他のヴァイの子たちと話すこともあまりない。
 もちろん、ヴァイに呼ばれることがあれば、顔を見せるが。
 変なやつだなあ、と究は常々、鴉拔のことをそう思っていた。
「そうそう、時影たちに会ったんだってさ、愛は」
「時影?」
 究の言葉に、鴉拔が少しその細い眉を顰めたようだった。
「うん、時影と瑛と……あと傳英」
「そう」
「会ったのは偶然らしいけど」
「まだふらついてるんだ、時影たちは」
 少し不快そうな鴉拔の表情。鴉拔はいつも物静かで感情を見せない。だから珍しいと究は思った。
「時影たちも、たまには帰ってくればいいのに」
 究がそう言うと、鴉拔は首を傾げながらも言った。
「そうだね……くだらないマザー捜しなんて、辞めたらいいのに」
「鴉拔……」
「いるわけないだろう? 希望だって。莫迦莫迦しい。あいつら、何十年もそんなことやって。くだらないよ。本当にくだらない」
 淡々と鴉拔はそう言った。
「鴉拔は、マザーはいないと思ってるの?」
「究はいると思ってるの?」
 逆に問い掛けられて、究は返事に困る。
 僕は……。
 そう言いかけようしたら、鴉拔はふいっと究に背を向けた。黒い長い髪が残像のように揺れた。
「え、鴉拔?」
「さようなら」
 そう言って、鴉拔は静かに部屋を出て行った。
 その後ろ姿が消えたあと、究はふうっと溜息をつく。
「鴉拔も、もうちょっとみんなと仲良くすればいいのに……。みんなとは言わないけど……僕でもいいけど」
 ほとんど姿を見せない鴉拔に関して、みんなは普段は忘れているように振る舞っていた。
 たまに廊下で姿を見かけると、逆に驚いたりする。
 皇なんか「鴉拔をみちゃったよ! 今日はついてない!」などと言う。
 ……そういえばこんなに話したのも、珍しいよな。
 究は思った。
 質問にちゃんと答えればよかった。そうしたら、もうちょっと鴉拔と話が出来たかもしれない。

 マザーはいたらいいかもって思っている。

 最初にマザーの話を聞いた時からの究の気持ちだ。
 時影たちは、そのマザーを捜して旅をしているという話も、その時に聞いたのだと思う。
 誰から? 誰だっけ? 皇かな? 愛だったかも。
 自分が、ヴァイの子になってすぐのことだった。
 マザーは吸血鬼の希望の存在だって。
 その希望がなにかは、誰も判らないそうだ。
 だけど、時影たちが捜しているのなら、見つかればいいと思っている。
「そうしたら、時影たちも帰ってくるんだろう? だったらヴァイ様が喜ぶし、傳英だって……いたほうが」
 傳英の話もよく聞いていた。時影と旅に出る前は、ヴァイの傍に一番いた子だと。
 会ったこともない傳英だけど、究としては気になる存在だった。
 今は、多分、自分がヴァイの一番近いところに居ると思っているから。
「どんな子なんだろー……時影も傳英も」
 そう呟いてから、究ははっとする。
「そうそう、報告に行かなきゃ」
 テラスの部屋から出て、究はヴァイの元に向かう。
 廊下は静かだった。むろん鴉拔の姿はもうない。
 ヴァイが時影たちのことを気にしているのは判っている。
 時々、時影の名が出ると、ヴァイは決まって少し笑うからだ。
「愛たちが時影に会ったって聞いたら、喜んでくれんのかな」
 なんとなく癪に触る気もする。でもヴァイが喜んでくれるのなら言うべきだ。
 究はヴァイが笑ってくれるのが好きだった。
「時影たちはヴァイ様に会いたくないのかなー……鴉拔だって、もっとヴァイ様に会いたくないのかなー」
 マザーを捜すことをくだらないなんて思わない。
 部屋で本を読むのも、きっと楽しいのだろうけど。
 でも、ヴァイに会えないのはきっとつまらない。
 究はいつもそう思っていた。
 きっと、喜んでくれる。
 愛と馨が帰ってくるのも、二人が時影たちに会ったことも。
 蝙蝠に託された愛の報告では、時影たち三人は変わりはなかったとのことだった。
 自分がそう言ったら、きっとヴァイは笑ってくれるだろう。
 だから早く伝えたかった。
 究の歩みが早くなる。ヴァイの部屋へ。よい知らせを早く運ばなくては。
 自然と究も笑顔になっていた。
【終】